<< 産休日記総集編 >> 感動巨編~これが女の生きる道

<<はじめに...>>

 私は、今回産休日記の中で、今まであまり口に出していなかった自分の病気の事を、 書いてきました。私のそういう所は知りたくなかったと思う方々もいなくはないと思 うし、見せるべきじゃないという、感想もあったかもしれませんが、思いきって書い てきました。そして葉奈の退院を期に終了を迎えるこの日記の集大成として、重複する内容もあるかと思いますが、私が今まで感じてきた事を書いてみたいと思います。 もう少しおつき合いください...。


 小さい頃からの願いだった、自分の子供を持ちたい、という事を真剣に考え始めたのは、旦那さんと出逢ってからでした。私には22歳の時に突然発病した《リウマチ》 という病気があります。温泉や銭湯などでお馴染みの病気です。私のリウマチの正しい病名は《若年性慢性関節リウマチ》。本来は比較的中年以降の女性に多い病気です。リウマ チは長い時間をかけて骨が壊れ、変形し、その間波はありますが痛みを伴う病気です。 完治に向かう特効薬や治療法がまだ見つかっていないので、痛み止めや症状の進行を 遅らせる、抑える薬が主です。その薬を22歳で発病してからの約8年間ずっと飲んで来たので、妊娠する事には不安があり、薬の影響が心配でした。妊娠する為には、 治療薬を止めなければならず、止めている間は病気が進行していくのです。

 結婚してから旦那さんとも話し合い、やはり一人は子供が欲しい。私も自分の子供を 持ちたいという気持ちが強く、主治医の先生に相談する事にしました。初めのうち先生は『もう少し良くなったらね』と何気ない感じで言っていたのですが、私の『あと どの位待てば良くなりますか?』の質問に私達が本気だという事がわかったらしく 『悪くはなっても良くなる事はまずないと思う。本当に真剣に考えているなら、体力のある今だね。』という答えが返ってきました。私はすぐにでも薬の調整をして欲しいという事をお願いしました。旦那さんと話し合った結果の答えでした。

 間もなく、私達の『子作り計画』が始まりました。私の通っていた病院ではリウマチ患者の妊娠・出産の例がなかった為、リウマチ科・薬剤科・産科の先生がチームを組み症例のデータ集めなどをし、治療計画を立ててくれました。その計画は ★妊娠する予定の一ヶ月前から薬を止め、体の中から薬をぬき、それ以降なるべく  早めに妊娠をし、妊娠したと同時に少量のステロイドを飲み始める。 これが計画。『なるべく早めに』というのは、今まで飲んでいた薬のおかげで私の体の痛みは抑えられていた訳で、それをゼロにするという事は当然痛みが出て来ます。 痛みのある時期をなるべく短くする為に『なるべく早めに』という事なのです。 
そして『少量のステロイド』これは、妊娠すると誰もの体から分泌される成分らしく これをもう少し足す事で、妊娠中の体の痛みからくる、精神的、身体的ストレスでの 胎児への悪影響をなくし、少しでも私が妊娠を楽しみ、最も大切な『リラックスした気持ちで妊娠生活を送る』事ができるようにと、先生方が考えてくれたのでした。 そして妊娠8ヶ月になったら今度は、今まで胎児へ、へその緒を通して移行していた ステロイドを胎児の体からぬく事を一番に考え、10ヶ月目の産み月には、どんなに私の体がつらくても我慢する・・・という事になりました。

 2001年11月初め、いよいよ私達の『子作り計画』が実行される事になりました。
次の年の5月の初めに妊娠がわかるまでの半年間。体の痛みは思っていたより大変 で、すぐに妊娠するだろうという私達の考えはかなり甘かった...。関節は腫れ、歩く事、寝る事、食べる事、掃除、洗濯、食事の支度、生活全部に痛みが伴いました。ライブやリハーサルでは楽器の持ち運びが出来ないので、メンバーやスタッフが私のサッ クスを運んでくれ、ツアー先では車の乗り降りが一人では出来ない。又その度肩を貸してくれました。ライブ本番はやり遂げたいという気持ち。何と言っても楽しかったのが、一番の救いでした。痛くてへこたれて、一人では何も出来ないというはがゆさも重なり、泣く事もよくありました。そんな私を見ている旦那さんは、きっととてもつらく、悲しい思いをしていたと思います。

 5月の初め、毎日つけていた基礎体温の変化に気付きました。これまでの半年間、期待しすぎる位期待し、ダメだった時の気持ちが甦り『期待しちゃイケナイ!』と自分に言い聞かせながら病院へ行きました。結果は『陽性』。妊娠したのです!もうその時の嬉しさったら、何と言ったら伝わるのか...。飛び上がらんばかり、かな。たぶん本当に飛んでたかも。痛くてつらい日々が一気に吹っ飛んだ感じでした。 その半年間、リウマチの具合はというと、痛みはあったものの、心配していた骨の変 形はあまりなく、うまく乗り越えられました。

 それからは、薬も始まり、痛みも減り、夢の妊婦道!人が見てもわからない程度のお 腹の出っ張りにかなりの幸せを感じ『妊娠してる』と考えるだけで、本当ーに一人でニタニタしてしまう程嬉しい気持ちでいっぱいでした。気持ちの悪い『つわり』も 体験できた事が嬉しかった程です。つわりになってちょっと大変だったのは、リハー サルでした。唄うと『オエッ...』サックスをブリブリ吹くと『オエッ...』メンバーの 心配そうな顔に申し訳なく思いながらの練習なのでありました。 しかし、そう楽しんでばかりもいられず、いつも心にひっかかっていたのは、私の病気がどんな風に子供に表れるかという事。遺伝性もあるので心配です。病気になって も、悪い事ばかりではありません。でも出来れば、痛くない生活の方がいい。でも遺伝しないかもしれない。それもそうなのです。

 妊娠中期に入り、お腹の子が動き始めると、これ又ものすごい幸福感!私の子がお腹 にいる。動いて生きてる。本当の意味で、私とお腹の子との二人だけの時間。こんな 気持ちがあと5ヶ月も続くのかと思うと嬉しくて仕方がありませんでした。それから、 旦那さんとも残りわずかな二人だけの時間。お腹に子供のいる私と旦那さんの二人だけの時間。すごく充実した日々だったな。 そしてその頃、リウマチの主治医からの『ライブいつまで続けるの?』の質問に『出 来なくなるまでやりたいです』と答えた私。薬を止めたら病気が進行してしまいます。 私の将来を考えてくれていた先生からの『子供は一人だけの約束なんだよ!もし何か あったらどうする!?もうお休みしなさい』その言葉は素直に受けました。一世一代の大仕事!名残惜しい気持ちはもちろんありましたが、お休みする事にしたのでした。 メンバーも快く承諾してくれました。

 リウマチだとわかった22歳の時、今とは別のバンドをやっていました。そのバンドに私はかなり入れ込んでいて、痛いも何もそんなのかまってられない!という気持ちでした。通院、服薬はしていましたが、リウマチになって、不自由な事はその時何もありませんでした。薬を飲んでいれば症状は抑えられていたし、若いというのもあったかもしれません。この病気がどんな風に進行していくかも、その頃、よくわかって はいませんでした。
全然普通の人と見た目も行動も何も変わりはなかったです。それは今も同じですが。昔と違う所はやっぱり気持ちです。
結婚して、子供を持ちたいと 思い始めてから、音楽・病気・家事・仕事・育児これをどうやっていくか、しっかり 考えなくてはいけません。考えるというより、自分自身に枠をつける事をやめた。と いう方が当たってるかな。子供が欲しいという事を主治医に話した時『よくそんな体 で子供を作ろうなんて事考えるねえ。』と少し驚いていたようでした。リウマチでも、 やろうと思えば音楽もできる。子供も生める。どちらも叶うのです。

 産休前、最後のライブは名古屋でした。ライブ終了後、突然、本当にびっくりする位 突然に、涙が溢れてきました。12歳からの約18年間、音楽をお休みした事がなかった私は『休む』という事に対して、知らず知らずのうちにものすごい淋しさを感じ ていたようでした。自分でも本当に本当ーにびっくりした出来事でした。 それから8ヶ月までの3ヶ月間は、旦那さんの実家での事務仕事と、家事にいそしむ 幸せ妊婦』順調そのもの!病院の定期検診で撮ってくれる超音波写真を楽しみに、 毎日を過ごしていたのです。

 しかし11月後半。8ヶ月に入った頃の検診で『妊娠中毒症』との診断。尿にタンパクが出ているとの事。減塩の食事をするよう言われ、その日から食事の見直しが始まります。その時点で私はまだ、その病気がどんな風に妊娠に関係してくるのか知識の薄さから全くわかってはいませんでした。
そして2週間後、今度は『妊娠中毒症』 の影響でへその緒からの栄養がうまく胎児に伝わらず、胎児の体重が少ない、しっかり育っていない、との事。私はもうどうしたらいいのか全くわからず、オロオロするばかりでした。そして入院・・・。 
入院中は出産までに胎児が少しでも大きくなるように、朝晩2回の点滴。食事はどんなに食欲がなくても残さず食べていました。そして妊娠中毒症が進まないように、減塩の食事療法、疲れてはいけないので、安静の生活。

 そして入院から18日目。ビックリする程突然に、私達の子は誕生しました。前の日からの胎児の心音低下(通常1分間に140〜160あるはずの胎児の心臓の音が6 0にまで下がっていたのです)が気になっていました。もしかしたらお腹の子に会う日も近いかもしれないと感じはじめていた矢先、緊急帝王切開での誕生でした。1186g。とても小さい大切な子。
旦那さんは言いました。『この子はきっと、かよの 事を考えて早く生まれてきたんだよ。もう少しでお母さんは薬をやめなくちゃいイケナクて、お母さんの体が痛くなったらかわいそうだから痛くなる前に早く出ようって思って出て来たんだよ!お母さん思いの優しい子なんだよ。』と。
泣かずにはいられませんでした。でもそれは、思い込みではないように思えるのです。実際私は12月 に入ってから、治療計画通りに薬を減らし始めていました。この子が誕生したのは薬 がゼロになるまで、あと1週間という日でした。私は産科を10日で退院後、リウマチ科に入院することになっていたので、そこで何日かいるとしても、私が退院してから、この子が家に帰って来るまでに1ヶ月近くの時間があく事になる。この子は私に 考える時間をくれたのだ。
旦那さんの言葉通り『お母さん、痛いの大丈夫だったら、 おっぱいちょうだいね。痛くなったらお薬飲んで私の帰りを元気な体で待っててね。』 と。そう言ってくれているようでならなかったのです。

 『おっぱい』の話し。 少量のステロイドは母乳には何ら問題はない事がわかっているのですが、リウマチの治療薬は母乳に移行してしまうので、治療が始まった時点で母 乳はやめなければならないのです。リウマチの先生は『母乳で行きたいというなら、 がんばれる所までがんばればいい。でも無理はイケナイ。骨がボロボロになる。』と 言いました。
これから長くて楽しい育児が始まるのに『ボロボロ』は困ります。出来るだけ無理のない所までがんばろうと思っていました。だから、旦那さんの言葉には 参りました...。本当に本当のような気がするのです。大切なこの子に私は守られたように思うのです。この子の為にも私は元気でいなくては!と思うのです。

 出生直後、葉奈は鼻から胃まで管を入れ、1回3ccから5ccのミルクをもらっていました。最初のミルクの時、まだ母乳が出ていなかったので、人工乳をあげた所、お腹をこわした。との報告。先生からは、普通より小さいので余計に人工乳でなく、消化・ 吸収が良く、栄養たっぷりの母乳が今は1番なので、がんばって搾って持ってきてほ しいと言われました。母乳をあげられる事が私はとても嬉しかったのです。
初め、リ ウマチの先生からは、生んだらすぐにでも治療を始めたいので、母乳はあきらめるよ うに、言われていたからです。『無理をしない』という約束で『母乳OK』の承諾をも らってから、本や雑誌で母乳が出るようになるという『おっぱいマッサージ』を少しづつやって、生まれたらたくさん飲んでもらえるように準備をしていました。それが 効いたのか葉奈が生まれて三日目の16日の夕方。10ccの母乳が出たのです。担当の先生はとても喜んで下さいました。私もとても嬉しかったです。葉奈もお腹をこわさなくなりました。
そしてその日を境に私の母乳の出は日に日に良くなっていきました。その母乳は、どうやって葉奈の元へ届いていたかというと、搾ってすぐ入院していた産科にある、母乳専用の冷凍庫で凍らせたものを、面会時、葉奈のいるGCUへ持って行き、ミルクの 時間に看護師さんが解凍し飲ませる。というしくみだったのです。

 前にも書いた通り、出来れば、母乳の出る間はずっと母乳で育てたかったです。母の気持ちです。しかし産後やはりリウマチ君は顔を出し、葉奈の誕生からわずか11日 後、クリスマスイブの12月24日。『リウマチの治療を再開する。』との酷な宣告 ...。
母乳は年明けまでという事で、母乳を止める薬を年明け後から飲み始める事になったのでした。母乳をやめたくないという気持ちは強くありました。だってたくさん出るのです。でも、私の体の事を考えて葉奈は早く誕生を迎えたのだと思うと、私は葉奈が家へ帰ってくるだろう頃には、万全に、元気に葉奈を迎えたい。葉奈も、痛くて しょんぼりしたお母さんでは嬉しくないだろう。
赤ちゃんの免疫を作る為に大事だと 言われ、出産後少しの間出る、溶かしバターのような色の母乳『初乳』は充分に飲ま す事ができた。次は私が元気になる番だ。それからの10日間は『搾れるだけ搾ってやるぅー!!』という意気込みで過ごしました。

 今現在、葉奈は無事、退院の日を迎え、私達の心配をよそに順調に育ってくれており、 夢に見た3人での生活を目一杯楽しんでいる次第です。 ここで少し、葉奈のいたGCUのお話し。
看護師さんたちは、びっくりする程ものすご い愛情を子供達に注いでいます。本来、親の私達がすべき事、オムツを換え、ミルクを飲ませ、遊び、寝かしつける。その全てをまだ小さく親の元へ帰れない子の為にしているのです。泣いてばかりのたくさんの子供達に対して、怒りもせず、その都度抱き上げ、あやし、なぜ泣いているのかを見極める。私は50日の間、毎日それを目にし、ただただ、ありがたいと、嬉しい気持ちでいっぱいでした。私達親に対しても、 小さく生んでしまったという、どうしようもなく切なく、どうしたらいいのかもわか らず、ただ見ている事しか出来ない気持ちを優しく受け止め毎日励ましてくれていたのです。

 ところで、サックスを吹かなくなって早半年。そろそろ私の中のバンド虫が騒ぎ始めています。サックスをやめたくなくて、バンド活動が楽しくできるように、毎日飲んできた薬。通い続けてきた病院。そして葉奈を出産し、これから先私は、小さな葉奈も一緒に、私の周りがどんなに変わっても、それも一緒に、私は変わらず、好きな音 楽を、バンドをやっていくんだろうと。サックスを吹き続けていくんだろうと。そう 思っています。


<<おわりに...>>

 何と言っても、パーマネンツというバンドに巡り逢った事が、私の幸せです。手前ミソですが、今も昔もいいバンドです。産休中ずっとサポートしていてくれた『ラブラブ・ラッッキー・ホーンズ』、サックスのかおりちゃん、トロンボーンのまゆみちゃん、 トランペットのふみえちゃん。ほんっとにありがとうございました...!!!
『あれぇ 〜?かよ辞めたんじゃなかったのぉ〜?』という声も聞こえて来るような、来ないような...。これからも末永ぁいおつき合いで4649です...。 
それからこの半年間、産休日記を楽しみに見ていてくれた方々(ヒマつぶしの場合も 可)本当にありがとうございました!!とにかくこれからも今まで通り、肩書きは『 子持ちサックスプレイヤー(前は何だったんだろう?)』に昇進(...?)しましたが、 変わらずに、もっとはりきってやっていきます。バンドは私がとっても大切に、大事にしている気持ちです。

★☆KAYO☆★